【ザンビ】第二回「アイドルがゾンビと出会うとき」――ザンビはどんな意味を持ちうるか?【考察】

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本連載では「アイドルがゾンビと出会うとき」と題して、ザンビプロジェクトがどのような企画でありうるのか、その可能性を探っている。

前回の記事では、ゾンビがコンテンツの中で果たす役割について考察した。

考察を通じて、ゾンビは作者のメッセージを象徴的に担いうる存在であるということが確認できたように思う。ではそのような役割を持つゾンビは、ザンビプロジェクトとしてアイドルの文脈におかれたときどのような意味を持ちうるのだろうか。本記事ではこの点について詳細に考えてみたい。

前回からの繰り返しになるが、ゾンビはそこで担うメッセージ性によってその性格が作りかえられる点にコンテンツとしての特徴がある。このことを踏まえたうえで、具体的なゾンビの描かれ方を想定しながら、ザンビにどのようなメッセージが込められるか予想してみよう。

 

ゾンビ=主体性を欠いたアイドル

アイドルは度々、主体性を奪われた存在として批判される。たしかにアイドルの歌う歌詞、ダンス、ポジションは大人に与えられるものであり、それらは必ずしも彼女ら自身の心情を反映したものではない。時には心にも思っていないことを歌わなければいけないこともあるかもしれない。こうしたことから、アイドルというジャンルはある種の権力構造や抑圧を肯定するものだとする考えも生まれてくる。

このような考えに基づいて考えると、アイドルは非常にゾンビ的である。特に、前記事でみた呪術型ゾンビと大いに共通点を持つだろう。主体性を欠いたアイドルは、まさに使役される存在として、ゾンビとなんら変わらない。

しかし言うまでもなく、こうした批判はあまりにも一面的な見方である。実際、我々はアイドル自身の思いが疎外された歌唱やダンスを楽しんでいるわけではないし、ましてや意に反したものを与えられ苦しむ姿を楽しんでいるわけではない。我々がアイドルに期待するものは、シンガーやダンサーに期待するそれとは少し異なる。たんにパフォーマンスとしてでなく、与えられたものを咀嚼し昇華する過程をこそ楽しんでいるといってもいい。この意味において、ゾンビとアイドルは似て非なる存在である。

もし仮にザンビのゾンビが呪術型なら、ゾンビとの争いの中で、主体性がないとする批判を退けるようなアイドルの在り方が提示されるかもしれない。あるいは、呪術者1)そしてその呪術者は秋元康に似た姿をしているかもしれない……=権力構造をいかに克服するかということが描かれるかもしれない。

主体性ということでいえば、ゾンビウイルスに犯された登場人物が薄れゆく意識の中でどのように主体性を保つか、なんてことも上の文脈でとらえることができるだろう。

以上のように、ザンビはこれまでの批判を覆すようなアイドル像を掲示してくれるかもしれない。

 

ゾンビ=アイドルを求めるオタク

ザンビの予告編を見る限り、メンバーがゾンビに逃げ惑うというのが基本的な構図のようだ。ここでゾンビを「アイドルを求める存在」として捉えれば、それはアイドルオタクのメタファーであると解するのが自然であろう2)少し本題とずれるが、なぜゾンビはなぜ人間を求めるのだろうか?この疑問に対する答えは固定的なものではないものの、ある解釈として、「人間はゾンビが失った人間性を持っているから」というものがある。すべてのゾンビは元は人間であったわけで、ゾンビが人間を求めるのは過去への憧憬の表れなのだという。この解釈はオタク=ゾンビの読みと親和的だ。オタクはアイドルにある種のイノセンスを見出しがちだが、それは自らがそうした感覚を失いつつあるからではないだろうか。実際、夢に向かって努力し続けることは簡単ではないが、子供の頃は純真さをもって夢を追いかけたものである。もしかすると、アイドルに対するまなざしは過去の自分をみるまなざしと同じものなのかもしれない。

この感覚は個人的なものかもしれないけど、実際オタクはゾンビと大差がないように思う。一人のアイドルを求めて大勢が群れる感じとか、金銭感覚が麻痺して理性を失っていく(ちょっと大げさだけど)感じとか。自分がそうなのだけど、地方のライブで野宿するオタクはたしかに人間性を失いつつあるのだと思う。この見方は自虐的過ぎるだろうか。

ゾンビ=オタクという構図が成り立つとすれば、ザンビではアイドルとオタクの関係が問われることになるだろう。前記事で述べたように、ゾンビは画一的な欲求を投げかける存在であったり、理解の及ばない他者として描かれる。すべてのオタクがそうであるわけではないだろうけど、例えば「アイドルはかくあるべき」と自身のアイドル観を押し付けるオタクや握手会で「釣り」を求めるオタク、あるいは「○○ちゃんどっこー?」と叫ぶオタクは、そのようなゾンビに類するものであるだろう3)言い方が悪くなってしまったかもしれないが、私は彼らを否定するつもりはないし、なんならライブ前の「俺の嫁」的な叫びはある意味エモーショナルで風物詩として好きである。分かり合える気はしないが。。またより普遍的に、推しメンに自らの「推しメン像」を押し付けてしまうというオタクの宿命はゾンビ的であるといえるかもしれない。

ザンビでは、このようなオタクに対してアイドルはどう向き合うのかということが語られるかもしれないし、あるいはオタクへの戒めが示されるかもしれない。作中でゾンビへの付き合い方が変化した際には、このような視点で考えてみてもいいかもしれない。

ゾンビ=アイドルとしての振る舞いが求められること

一度ゾンビが世に放たれると、瞬く間に地表はゾンビに覆われることになる。このような世界では、人間は常にゾンビに襲われる危険と隣合わせで生きていくことになる。ゾンビは昼夜を問わず人間を求めて徘徊し続ける。たいていゾンビは足が遅いからその場その場で逃げることはできるのだが、ゾンビはどこまでもいつまでも追いかけてくる。次第にストレスで仲間割れを起こしたり、気が狂ってしまったりする。ストーリーの上では、ゾンビそのものとの戦いよりもむしろこうしたストレスフルな状況にどう対処するかがカギになっていることも多い。

このような状況をアイドルに落とし込んで考えると、「ゾンビに追われること」を「アイドルでいること」の比喩として読むことができるだろう。現代において、アイドルは「裏をみせる」ことの比重が大きい。アイドルとしての活動はTV番組や音源の上に留まらず、私生活の出来事をメールやブログで開示することが求められる。ドキュメンタリーのカメラが本来「裏」であるはずの楽屋に入り込んでいることも少なくないだろう。また週刊誌の記者は否応なくプライベートに踏み込んでくるだろうし、街にでればファンが彼女の存在に気付いて話しかけてくるかもしれない。とにかくアイドルは常に誰かの視線にさらされており、常にアイドルとしての振る舞いが求められているのである。こうしたプライベートな時間が確保できない状況がストレスフルであることは想像に難くない。ザンビではゾンビの脅威と隣り合わせのサバイバルを、アイドルとして活動することへの苦闘として読むことができるかもしれない。

 

おわりに~アイドルとゾンビが出会うとき~

以上、本記事ではザンビプロジェクトにおいてどのような読みがあり得るか考察してきた。はっきりいって、しがないオタクが勢いに任せて妄想を書き連ねたにすぎない。ザンビプロジェクトが始まっていない以上なにも正解ではないし、ひどく的外れなことをいっているかもしれない。

けれど僕が伝えたかったのは、ザンビは普通に思うよりも面白い試みであるかもしれない、ということだ。「ゾンビ?ないわ~」と一蹴してしまうのでなく、少し腰を据えて眺めると見えてくるものがあるかもしれない。ないかもしれないが。あるといいな。頼むぞ秋元康。

そんなわけで、ザンビプロジェクトは11/16、TOKYO DOME CITY HALLで始動する。是非みんなでザンビを楽しもう。

 

References   [ + ]

1.そしてその呪術者は秋元康に似た姿をしているかもしれない……
2.少し本題とずれるが、なぜゾンビはなぜ人間を求めるのだろうか?この疑問に対する答えは固定的なものではないものの、ある解釈として、「人間はゾンビが失った人間性を持っているから」というものがある。すべてのゾンビは元は人間であったわけで、ゾンビが人間を求めるのは過去への憧憬の表れなのだという。この解釈はオタク=ゾンビの読みと親和的だ。オタクはアイドルにある種のイノセンスを見出しがちだが、それは自らがそうした感覚を失いつつあるからではないだろうか。実際、夢に向かって努力し続けることは簡単ではないが、子供の頃は純真さをもって夢を追いかけたものである。もしかすると、アイドルに対するまなざしは過去の自分をみるまなざしと同じものなのかもしれない。
3.言い方が悪くなってしまったかもしれないが、私は彼らを否定するつもりはないし、なんならライブ前の「俺の嫁」的な叫びはある意味エモーショナルで風物詩として好きである。分かり合える気はしないが。