北野日奈子1st写真集『空気の色』

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私の〈空気の色〉は何色だろう。
『空気の色』巻末コメントより

北野日奈子と「自分らしさ」

北野日奈子について何かを語る際、最早「自分らしさ」という言葉を避けて通ることはできないのではないか。そう思われるくらいに北野日奈子は「自分らしさ」に向き合い続けてきたように思う。
乃木坂46に加入してから
ずっと悩んでる、探し続けてる
『個性』について今年で活動を始めて4年目をむかえるここ最近、
凄く悩んでます。
本当の自分が誰なのか
求められている自分はどんなものなのか
私の中にいる私と
皆さんの中にいる私
両方の私は
同じ私なのかな?
北野日奈子公式ブログ「きかい」2017/2/4
私はいま
日奈子らしい、日奈子らしくないが分からないです!
北野日奈子公式ブログ「今が途切れないように」2017/7/27
明言こそないものの「自分らしさ」にまつわる苦悩が彼女の「体調不良」となんらかの形で関係しているであろうことは否定しがたいように思う。彼女が「自分らしさ」にまつわる悩みを公言しはじめたのは、奇しくも「自分の調子が良くないかなと思い始めた」という2016年の冬のことである。そもそも「自分らしさ」に対する自問のきっかけが何だったのか、僕は寡聞にして知らないのだが、ちょうど二年前くらいからファンの期待と北野自身に齟齬が生じはじめていたというぼんやりとした印象がある。
メディアではどうしても元気で無邪気な側面がフィーチャーされることもあり、世間のあまりにも一面的な北野日奈子像が彼女自身とズレを起こしてしまった……というのはあくまで個人的な想像だが、各種メディアで“乃木坂の元気印”といった紹介のされ方をしてきたのは事実だ。内省的で自分の感情を大切にするような側面は、少なくともメディア上では見過ごされてきたのではないだろうか。もちろんその全ての側面を含めて北野日奈子であるのだが、ファンはある意味で「作り上げられた」北野日奈子を求めており、それ以外の側面を「らしくない」と切り捨ててしまっていたのかもしれない。
この意味では北野日奈子の「自分らしさ」をめぐる苦悩は、世間のいう「らしくなさ」をどのように自分の中に位置付けるか、という問題に置き換えられるものだったといっても良いだろう。
そうした背景を考えると、約一年間の休業を経て臨んだ写真集の撮影は、特別な意味をもつように思える。『空気の色』の編集者は本書をこのように表現している。
活発なイメージが強い彼女ですが、22歳になった今だからこその魅せ方にも色々と挑戦しました。少女と大人の間を行き来する、振り幅の大きい写真集にご期待ください
北野日奈子1st写真集公式Twitter 11/23
乃木坂46史上、最大の「振り幅」をもつ写真集だと言っても過言ではありません!
北野日奈子1st写真集公式Twitter 12/18 
これまで先行していた無邪気で少女的なイメージに留まらない、新たな魅せ方への挑戦。固定的な北野日奈子像を打破する最大級の振り幅。そこには間違いなく「北野日奈子らしさ」の再考があったはずだ。『空気の色』は「らしくなさ」との苦闘の延長線上にあるものであり、その一つの答えになっているのではないか。

本当の「空気の色」

先述のとおり、『空気の色』を通して印象的なのは北野日奈子の振り幅の大きさだ。
子供のような無邪気な笑顔を見せたかと思えば、物憂げな表情で視線を投げかけてくる。今までになく大胆なカットも多く、多少なりとも北野を追ってきた筆者であってもイメージを覆された部分もある。率直にいえば最初に『空気の色』を読んだ時、予想以上の露出の多さに驚いてしまった。あくまでランジェリーや水着のシーンはスピンオフ的な、付加的なものなのだと思っていたからだ。しかし実際にはそうしたカットは全体の3割近くを占めており、非常に力強くその存在をアピールしている。まるで本当の北野日奈子はこっちなのだと訴えかけるようだ。
この振り幅の大きさは北野日奈子自身の二面性があってこそのものだが、しかし本書には彼女の二面性を強調するような仕掛けが施されている。僕にはこの仕掛けこそが、本作の持つ意味を象徴しているように思えてならない。
その仕掛けとは、ページに使われる余白の色である。具体的には、白い余白で写真がレイアウトされているページと、黒の余白にレイアウトされているページの2パターンが使い分けられているのだ。白い余白は明るく健康的な印象を与える一方で、黒い余白はページ全体をシックに引き締め力強い印象を与えている。その全てを飲み込むような漆黒の存在感には迫力を感じるほどだ。白と黒の余白はかなり強いコントラストになっており、白い余白は彼女の無垢で清潔なイメージを、黒い余白はダークで物憂げな雰囲気を強調し、彼女の二面性を際立たせている。
ところで、この余白の色には法則性がある。それは撮影の時間帯である。すなわち、昼に撮られたシーンは白の余白で、夜に撮られたシーンは黒い余白で縁取られているのである。
昼は白く、夜は黒。
それはまさにスウェーデンの「空気の色」を表しているのではないだろうか?
雪に覆われた雪原は、日が差す日中は白銀の世界が広がり、夜は漆黒の闇があたりを包み込む。写真を取り囲む余白は北野日奈子の纏っていた空気そのものなのではないだろうか。
では昼の空気の色と夜の空気の色、両極端にある両者はどちらが本当の空気の色なのだろうか。この問いに答えはない。問いの立て方が間違っている。なぜならどちらも対等に本当の空気の色なのだから。
まさに同じことが北野日奈子にもいえる。
『空気の色』に共存する既存のイメージ通りの北野日奈子と新たなイメージの北野日奈子は、どちらかが上位にあるという訳ではない。両者は同じ権利で北野日奈子なのだ。誰かの言う「らしさ」も「らしくなさ」も結局は北野日奈子自身からうまれたものでしかない。どちらも本当の彼女なのだ。
北野日奈子は写真集の表紙を飾る写真を「私らしくないところが私らしい」という。自分らしさを自問してきた者の言葉として、これ以上の表現があるだろうか。「らしさ」も「らしくなさ」も全部ひっくるめてはじめて、「らしさ」という表現ははじめて意味を持つ。余白の色の上に成り立つ「空気の色」というメタファーは、彼女の出した結論を象徴的に表しているように思えてならない。

まとめにかえて

北緯68度に位置するキルナでは、冬至を境に1ヶ月近く太陽が昇らない日が続く。その日々は日本で暮らす私たちにとっては想像を絶するものだ。しかし、その冬を乗り越えた先には、約2ヶ月の白夜が待っている。
この両極端な気候は、なんて北野日奈子らしいのだろう。
きっとこれは偶然にすぎない。それはわかっている。けれど僕はどうしてもここに必然を、この地で写真集が作成された意味を見出したくなってしまう。
昼がくれば夜がくる。夜がくれば昼が来る。それは当たり前のようで当たり前じゃない。時には全く夜が明けないこともある。
彼女はこの1年間、そんな長い夜を過ごしたのかもしれない。けれど長い夜があったのなら、そこには長い昼もあるはずだ。
『空気の色』は、朝日を浴びる北野日奈子の横顔をもって締めくくられる。長い夜も一度明けてしまえば、あとは日が差す時間は増えていくばかりだ。きっと今度は光溢れる明るい季節がやってくる。
まあなんにせよ、”北の太陽”はすこし極端なのだ。振り幅が大きすぎる。
けれど僕はその太陽がもたらす日差し、そして暗闇をも、心から美しいと思うのだ。
散歩路むらーつ