ザンビ-theater’s end-を観劇してきた

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はじめに

一か月以上前のことになってしまったが、ザンビプロジェクト第4弾となる舞台「ザンビ~theater’s end~」を観てきたので、ゆるーくその感想をば。

「ザンビ~theater’s end~」は第1弾の舞台同様、乃木坂46・欅坂46・日向坂46(けやき坂46)の坂道3グループ合同でキャストが組まれ、今回はTEAM BLACK、TEAM YELLOW、TEAM GREENのトリプルキャスト。脚本・演出は赤澤ムック氏。

今回の舞台は「完全体感型」と銘打たれており、ザンビの世界に観客を巻き込む演出に期待が寄せられていた。実際この演出が本作を最も強く特徴づける要素になっているのだが、その手法をめぐってはSNS上で賛否が分かれており、それが本作の評価にも直結している印象だ。

この演出にかんしては僕も思うところがあるのだけど、それはおいおい述べることとして、まずは本作のあらすじを振り返ろう。

あらすじ

全国で突如「ザンビ」が発生し、世界は混乱に陥っていた。ザンビとは、何らかの原因で理性を失った人間が人々を襲うようになる現象のことである。ザンビは人間に噛みついて仲間を増やす習性があり、一度ザンビになった者は人間に戻ることはできない。そこで都内某所では、ザンビの脅威から逃れるために、劇場を避難場所として多くの人々が集められていた。そこにフリージア学園の生徒である志乃と槻子、遅れて未来が駆け込んでくる。<br>この避難所を統括する政府軍の隊長によれば、劇場の外にはザンビが溢れており、救助トラックの助けが来るまで待つほかないのだという。さらにザンビは襲われてすぐザンビ化するのではなく、しばらくは人間の姿を保っているのだという。つまり、いま収容されている避難民の中にもすでにザンビ化している者が紛れ込んでいる可能性があるのだ。そこで、政府軍は避難してきた人全員を一人ずつ検査していく。ザンビ検査の結果、数人にザンビである疑いが生じ、軍は彼らを殺してしまう。

ショックを受ける志乃たちであったが、それ以上に強い怒りに駆られたのが劇場の支配人であった。支配人にとって、祖父から受け継いできた彼の劇場は神聖なものであり、その舞台の上で手荒に振る舞う政府軍が許せなかったのだ。怒りによって理性を失った支配人は、軍の隊員を次々と殺していってしまう。安全であるように思われた劇場は一転して、狂気にかられた支配人の恐怖に包まれる。さらに劇場には着々とザンビの脅威が迫っており、劇場の内部にもザンビが入り込んでいた。志乃たちはザンビと支配人の恐怖におびえつつも、なんとか無事に劇場から出ることを誓いあう。

暴走を続ける支配人であったが、ついに劇場の内部に侵入してきたザンビに襲われる。偶然が重なりザンビを撃退し一命をとりとめることができたものの、支配人は劇場の惨状に絶望し自らの命を絶ってしまう。志乃たち3人もなんとか難を逃れていたものの、槻子が足にけがを負ってしまっていた。志乃は手当のために救急箱を取りに行くが、その先にはザンビが待っていた。抵抗もむなしく志乃はザンビになってしまう。志乃は槻子と未来のもとに戻り、自分がザンビになってしまったことを告白する。受け入れ難い告白を聞いた二人であったが、槻子は志乃と運命をともにすることを選び、志乃に自らの身体を差し出してザンビになってしまう。他方、未来は二人の生を背負って生きていくことを決意し、到着した救助トラックのもとへ駆け出す。

いや、あらすじ長すぎんか。というか必要あったのかなこれ。すごい時間かかったからそのまま載せるけど。

キャストについて

僕は今回TEAM YELLOWとTEAM GREENの公演を観ることができたので、それぞれのメンバーについての感想を述べたい。

阪口珠美(志乃役)

阪口珠美

自分は「星の王女さま」や「見殺し姫」を観ていないこともあってあまり彼女に演技のイメージがなかったのだけど、期待を遥かに上回る好演。個人的にNOGIBINGOの妄想リクエストでNGを連発していた印象が強く、演技はちょっと苦手なのかと思っていたのだけど全くそんなことはなかった。ヴィジュアルは尋常じゃなく可愛いのだけど、舞台の上ではいい意味で普通の女の子っぽさがあって、すごくなじんでいたと思う。発話も凄く自然だし、聞き辛さみたいなのは全く感じない。アイドルしているたまちゃんの突き抜けた感情表現をみているだけに、こんな自然に振る舞えるのが逆に不思議な感じ(失礼)。ただザンビ化したあとの虚ろでぎこちない演技がやけにうまくて、こちらはいつものたまちゃんらしいなぁと。(もちろんその根底には彼女の身体のコントロールの上手さがある。)

推しとして彼女を追っている身としては、千秋楽のアフタートークで八十田さんに「女優続けてね」と言葉をかけられた話がすごく嬉しい。アイドルとしての阪口珠美さんが好きなのはそうなんだけど、可能性が広がるのはすごくいいこと。今度のナナマルサンバツも楽しみ。

織田奈那(槻子役)

槻子役がハマり役なのか、演技がめちゃうまいのか、きっとどちらの要素もあるんだけど槻子のキャラクターにすごく説得力があった。『21人の未完成』でオダナナを担当したカメラマンが「拒むほど閉ざさず、寄り添うほど開かない」とオダナナを評していたが、槻子もまさにそんな感じ。あまり本心を見せずに俯瞰でものごとを眺めるけど、その内にはきっと譲れないものがあるのだろうなぁと。志乃を追う選択とその理由は脚本上すこし唐突な感じがあるけど、オダナナの演技の節々にはたしかに志乃との複雑な関係性を感じさせるところがあって、そんな過去があったのか!とすんなり納得できた。肩肘張った感じがなく、自然体の演技でとてもよかった。

松田好花(未来役)

志乃に守られてか弱そうな印象を与えつつ、最後には生きることを選ぶというアンビバレントな役柄だったけれど、そんな役の難しさを感じさせない好演だった。全体的にハイレベルなTEAM YELLOWを引っ張っていたのは彼女だろうな、と思わせる安定感。

普段のハキハキしていてしっかりしている彼女のイメージと志乃は遠いように見えて、根源的なところでのポジティブさという意味ではハマり役だったのかもと思ったり。そういう生に対する絶対的な肯定みたいなものはけやき坂/日向坂全体にもいえることのような気がするのは先入観が強いだろうか。

岩本蓮加(志乃役)

歯切れのいい喋り方に岩本蓮加を感じつつ、そこに過去にこだわる志乃の性格が出ていてキャラクターとしてすごく理解しやすかった。一度決めたらてこでも動かない、みたいな頑なさがありつつも、それでいっぱいいっぱいになる感じじゃなく。ちゃんと自分の行動原理として整理ができていて、個人的にすごく好感が持てたキャラクター。阪口志乃が「普通の女の子」だったのと比べると、岩本志乃の方がキャラクターとしてのシルエットがよりはっきりしている印象。小さいけど三階席まで伝わる圧というかエネルギーがあって、TEAM GREENのなかではひときわ存在感があったように思う。

渡辺梨加(槻子役)

織田槻子が過去の複雑な事情を繊細に表現していた印象をうける一方で、 べりかの演じる槻子はシンプルにやばそうな雰囲気がすごい。 普通に話をするシーンでも半テンポ反応が遅かったり、なんとなく違和感を感じさせて、それが最後の彼女の選択の伏線になっていた。キャラクターとしてはオダナナの方が分かりやすい分可愛げがあって好きなのだけど、最後の檻のシーンの解放感は徳山でもみたようなすごみがあった。ただいくらけやかけで見慣れているとはいえ、アフタートークでディズニーの動画を観るのが日課とたっぷり時間をかけて語る姿とのギャップにはやはり驚かされるし、ピースフルな光景をつくりだす才能も印象深かった。

佐々木久美(未来役)

佐々木久美の演じる未来には、岩本志乃の押しの強さと共鳴する芯の強さを感じた。たしかに二人は幼馴染だったんだろうなと思う。たしかに志乃は未来を気にかけているけど、TEAM GREENの場合それは未来が弱い人だからというわけではなくて、二人の過去がそうさせているだけなのだと思う。ラストシーンの槻子に対する失望感溢れる演技が特に印象的で、きっと佐々木未来は友人を本当に信頼していて、愛に溢れた人なんだと思う。だからこそ彼女は生きる選択をしたのだろうし。織田槻子や岩本志乃同様、キャラクターとしての個性を強く感じられて良かった。

演出について

完全体感型の演出

個人的には、完全体験型の演出は面白い試みだったと思う。最初の回で何も知らされないまま一階席で観ることができた、という点は大きいかもしれないが。まず、劇場を舞台にするという設定の妙である。僕たちが舞台を観に来た劇場は、たしかに志乃たちにとっても劇場なのだ。ただ、観ている世界が違う。志乃たちにとって、この劇場は避難所なのである。最初はこの違和感に戸惑ったけど、隊長の説明があったところでそういうことか、と事態を飲み込めた。自分は観客じゃなくて避難民の一人なんだ、と。一度事態を飲み込んだら一気にザンビの世界観に引き込まれた。

圧巻なのはやはりザンビ検査のシーン。観客全員が舞台にあげられ、一人ずつ検査を受けるという演出には素直に驚いた。たしかに話の流れとしては自然だけど、まさか自分がザンビの疑いをかけられるとは。しかも観客のなかに演者を仕込んでおいて、実際に検査に引っかかる人がいるという手の込みようである。この演出のおかげで、隣の人もザンビとして突然暴れ出すかもしれない、という緊張感が生まれて、なるほどこれは体感型だなぁと。たしかに観客全員を検査するのにはかなり時間がかかっていたし、2階席や3階席の人はいったん通路に出なきゃいけなくてそこでちょっと集中が切れてしまったのだけど、これはこれでなるほどなぁ、という感じ。(後述)

第四の壁

この演出について考えていて思い出したのは、「第四の壁」という言葉。簡単にいってしまえば、第四の壁とは、舞台と観客席を、つまりフィクションの世界と現実世界を隔てる境界のことだ。普通僕たちはこの第四の壁を意識しない。というか、あえて意識しないほど自明視している。この壁があるから僕たちは舞台上で倒れた人がいても救急車を呼んだりしない。それは舞台上の、フィクションの世界の出来事だからだ。このとき、観客は「安全な場所から」傍観者として舞台上の出来事を観ている。

で、今回のザンビの演出はこの第四の壁を拡張するものだったと理解していいと思う。僕たちは舞台を観に来ていたはずなのだけど、その舞台が成立するためには僕たち自身が演者となる必要がある。僕たちはザンビ検査を受けるために舞台にあがらなければいけないし、支配人に同調したり反発したりしなければいけない。本作で観客は、傍観者としてでなく避難民として振る舞うことを余儀なくされている。つまりtheater’s endにおいて、フィクションの世界は観客席にまで拡張されているのだ。本来舞台と客席の間にあるはずの第四の壁が押し下げられ、舞台全体をすっぽりと覆っているのである。

Wikipedeiaの「第四の壁」の項によると、登場人物自身に「演じている」ことを自覚させることで第四の壁を打ち破る手法はこれまでにも存在していたようだけど、本作の演出はそれとは少し違う。あくまで志乃たちはその世界観を維持したままで、むしろ観客の方に意識の変化を強いている。第四の壁を打ち破ることなくむしろ拡張しているのはすごく挑戦的な試みだったのではないだろうか。その成否はともかく、この試みは個人的にとても新鮮で、楽しむことができた。

考察というか超解釈

虚構を楽しむということ

さて、こうして考えてみるとこのような舞台の構造が、ファンがアイドルに接する姿勢と類比的な関係にあるように思えるのは面白い。

本作を楽しめるかどうかは、本来「観客」であるはずの僕たちが「避難民」として参加できるか、という点にかかっている。つまり、ザンビというウソに乗ることができるかどうかが焦点になる。

この事態は、アイドルというコンテンツにも同様に起こり得る。荒っぽく言ってしまえば、アイドルもショウであり虚構である。「アイドルはトイレにいかない」というような「虚構」が一昔前のアイドルファンには共有されていたという。いまでこそそのような虚構の有効性は疑わしいけれど、アイドルオタクである僕らは、同種の観念をアイドルに抱いてはいないだろうか。少なくとも、オタクがそれぞれに抱く西野七瀬像とか平手友理奈像は、西野七瀬や平手友理奈その人自身ではない。オタクの理想がそれぞれのアイドルイメージに仮託されている現実は否めない。そのことに自覚的になったうえで、アイドルにそれぞれの思いを馳せているという振る舞いはオタク特有のものであるように思う。

Theater’s endの観客とアイドルオタクには、共通して「虚構に気付かないフリ」をすることが求められている。あるいは、虚構に気付きながらも、その虚構を維持しつづけなければならない。そうでなければ、ザンビやアイドルはナンセンスなものになってしまう。しばしばアイドルとそのファンに向けられる冷めた視線は、このナンセンスさに起因するものではなかろうか。オタクにならずにアイドルを受容するのは難しい。

Theater’s endでは、第四の壁を観客にまで押し広げることでこのアイドルに特徴的な事態を巧みに浮かび上がらせている。外からアイドルを楽しむことができないように、観客としてTheater’s endを楽しむことはできない。局所的な内輪ノリを理解して、インサイダーになること。それがアイドルオタクにとって、Theater’s endの観客にとって、肝要なことなのだ。

現実/ザンビからの逃避行

ある意味で、観客が避難民として扱われるのは面白いことだと思う。避難民になるということは、舞台の虚構に浸るということだ。それは一旦現実を忘却することを意味する。ザンビの世界の避難民は、現実世界からの避難民でもあるのだ。「劇場の外はザンビに囲まれている」と志乃はいう。では実際に劇場の外にあったものは何だっただろう。紛うことなき現実そのものである。現実逃避というと聞こえは悪いかもしれないけれど、要はケを脱してハレを楽しむということである。古代の演劇がそうであったように、劇場は現実からの避難所であったのだ。

この文脈でザンビと現実を重ね合わせることが許されるなら、あの日劇場にいながら避難民になりきれなかった観客はザンビ的な存在であった。虚構の世界にいながら現実に引き戻されてしまった観客は、どちらの世界にも着地できないまま宙づりの状態で放置されてしまっていた。そのような人から本作への批判が生まれるのは至極当然のことだろう。翻ってアイドルにかんしていえば、アイドルに深くかかわりながらその枠組みの外から冷めた視線を投げかける者がいる。いわゆる「斜構」オタクである。(こんな記事を書いている僕にもかなりその気配はあるのだが、)このタイプのオタクは非常にザンビ的だ。アイドル的なノリに乗り切れず、かつオタクであることをやめられない存在。ある意味でそのようなオタクは脅威だ。現実の論理ををもって虚構の世界をナンセンスに帰すことは難しいことではないからだ。この意味で、Theater’s endはザンビ的なオタクに対する警鐘として解釈する可能性を持っているかもしれない。

おわりに

拡大解釈に拡大解釈を重ね妄想で固めた結果なんだか突拍子のない代物が出来上がってしまった。正直自分自身で若干引いている。こういうことを書きたかったわけではないはずなんだけどなぁ…。ここまで読んでくれた人がどれだけいるか分からないけどどうか大目に見て欲しい。これではもはやカミビトである。まだ無事なオタクはどうか健全なオタクライフを送ってほしい。僕はしばらく檻に入ります。